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突然ですが歴史の話です。第三話

今日は信長の死後、その遺児たちを秀吉がどう処遇したかを書いてみます。
まずは次男信雄(のぶかつ)。長男信忠(のぶただ)が本能寺の変で信長とともに死んでしまったことから、信雄は当然跡継ぎは自分であるべきだと思ったことでしょう。

しかしながら秀吉は信忠の忘れ形見、三法師を担ぎ出します。これはそれなりに説得力があることなので信雄は大きい声でNOとはいえません。というより信雄本人は三法師は眼中になく、三男信孝(のぶたか)こそが後継者争いにおいては邪魔者と考えていました。

そこでまず秀吉と手を組み、信孝追い落しに全力を尽くします。詳しくは省略しますが結果的に信孝に競り勝ち、切腹に追い込むことに成功します。
そこまではうまくいきますが、それ以後はすべて秀吉の手のひらの上に踊らされる形になりました。気が付いたときには秀吉と力の差がつきすぎ、その実力の前に屈服し臣従します。
信雄は秀吉にそれまでの領土を一応安堵され、尾張、伊勢などに100万石前後の領地を持っていました。しかし秀吉は北条氏を滅ぼした小田原征伐後、信雄に三河・遠江周辺に国替えを命じます。
信雄は父祖伝来の地である尾張より動くことをよしとせず、断ります。秀吉はこれに怒り、それまでの土地を没収し、わずか1万石程度に改易し、その後信雄をお伽集(おとぎしゅう)、つまりただの話し相手とし、死ぬまで飼い殺し状態にします。 まったく同じタイミングで関東に国替えを命じられ、それを素直にしたがい、後の天下取りの礎とした家康とはあまりに対照的です。

そして三男信孝。信雄によって切腹に追い込まれたところは書きましたが、実質的には秀吉に殺されたといっても過言ではないでしょう。そして信孝が切腹したときに詠んだとされる辞世の句がすごい。
「昔より 主をうつみの野間ならば やがて報いん羽柴筑前」
簡単に意訳すると「主筋の俺を殺しやがって。恨んでやる。おもえにもいずれ報いがくるぞ。」となります。普通辞世の句はさっぱりした、清々しいものになることが多いものです。秀吉を恨んで死んだことでしょう。
もちろんこれは後世の創作である可能性が高い、というか偽物でしょう。ただ当時の一般市民には「さもありなん」と説得力があったのではないのでしょうか。

三法師についてはいずれまた機会があれば書いてみたいと思います。

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