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突然ですが歴史の話です。第二話

以前、信長・秀吉・家康のことを書いたことがありました。
その時に秀吉に比べ家康のほうが人気が低く、その原因の一つに秀吉の遺児・秀頼および豊臣家を滅ぼしたことがあることも書きました。 もしそのことで家康を嫌いな人がいたら少し反論があります。
それは家康が秀吉の死後、豊臣家におこなった行為と秀吉が信長の死後、織田家にとった行動を比べてみたことありますか?ということです。 信長が本能寺の変によってこの世を去ったとき、信長が死んだことを除けば織田家にとって最大の不幸は次期後継者・嫡男信忠(のぶただ)が一緒に死んでしまったことです。結果、そのことが後の織田家の衰退を招くことになります。
本能寺の変のとき、信長の息子たちの中で成人していてそれなりの地位にあり、仕事を任せられていたのは二名、次男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)でした。いまの判断基準なら次男信雄が織田家を継ぐのがまあ普通かなとおもいがちですが、時は戦国、当然実力がなければ跡継ぎにはなれません。 ものの本によれば信雄はイマイチで信孝はなかなかの人物という批評だったようです。
本来、跡継ぎレースはこの二人の一騎打ちのはずですが、ここで秀吉が信忠の遺児、三法師を跡継ぎレースにねじ込みます。信長の直系の血筋(嫡孫)ですから筋が通ってるといえば通っていますが、織田家のためにはどうなのか。もちろん織田家の行く末のことなんか頭にあるはずがない。信長の築いたいろんなものを引き継ぐ気満々です。信長の死の直後からすでにこんな感じです。
秀吉の死後、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすまで17年「待った」家康と比べてみてください。もっとも言いたいことは、信長と秀吉の関係と秀吉と家康の関係を比べた時、秀吉にとって信長は多大なる恩を感じるべき主従関係、家康にとって秀吉はただのライバル関係だったことです。
信長がいなければ秀吉の存在はありえません。秀吉がその恩師ともいえる信長の子孫たちをどう扱ったかいずれ書いてみたいと思います。

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